菊と刀 ルースベネディクト
◆初めに
菊と刀は外国人からみた日本人論。日本人からみた日本人論としては新渡戸稲造の武士道があるが、それとは違う作品である。
◆概要
著者はルースベネディクト。文化人類学者。
本書は、第二次世界大戦において、日本人を降伏させために、日本人の文化や理念を分析するという目的で書かれている。
戦時中の日本人は、絶対撤退せず、忠誠心に満ちた人種と思われた。一方、捕虜になると、自国のことをべらべらとしゃべってしまう、忠誠心のない人種に思えた。このような矛盾を解明することがポイントとなる。
◆内容
ポイントは以下の3点と考える
・応分の場を占める。
この話は日本人は階級構造が好きということを言っている。
階級の要因は我々のいわゆる士農工商の身分ということではなく、年齢・性別・仕事などなど。例えば、年寄りや子供は無条件で尊敬の対象となる。男性は外で働き、女性は家庭を守るのが常識。仕事では、発注側が偉く、受注側は発注側はそのわがままを聞くことになる。
私の考察となるが、日本の応分の場を占めるという文化は日本の官僚主義に代表されつと考える。それぞれが、自分の役割のみに従事し、その意味や影響を深く考えないという点で共通なのではないか。また、この考えが原因で、仲間の役割から外れた人に対するいじめが起きたりするのだと思う。
ちなみに、日本の植民地政策の問題点として、このような倫理観のおしつけというのを本書では挙げている。
・恥の概念
応分の場を占めるということだけでなく、恥も重要な行動原理となる。
ルースベネディクトは夏目漱石の坊ちゃんからヒントを得ている。坊ちゃんの内容をまとめると、「友人の山嵐から1銭5厘の借りがあった。その後、山嵐が自分の陰口をたたいているという噂を聞き、1銭5厘の借りを返さなければならないと感じた」という話である。このように日本においては、友人でもない人から借りがあるということは恥であり、恥を抱えてはいけないという文化がある。
ほかにもご恩には奉公する。辱めをうけたら、返さなければならない。究極的には
恥をかくくらいなら切腹する。このように、恥という概念が幅を利かせている。
・子供の教育
ならば、いつから恥の概念や応分の場を占めるという話になるのだろうか?
そこでルースベネディクトは子供の教育に注目する。
日本の子供(小学生低学年まで)は基本的に自由である。離乳は遅い。兄や姉は弟や妹のわがままを許すように言われる。実際、石けりやボール遊びが自由に許される。
そこでは子供は自分の自慢をする。例えば、「僕は殿様で、君は家来だ」「うちの父さんは君の父さんより賢いんだ」など。
年を取るにつれ、自由は許されなくなる。しかも恥をかかせるという手段をとって。「お乳を必要とするのは赤ん坊ですよ」「男の子なんだから泣かないこと」「あの子の方が立派ね」など
大人になると、言葉遣いは丁寧になる。自分たちには拙宅、愚妻、愚息などをあてがい、一方他社にはご尊宅、ご令息、ご令嬢などをあてがう。
このように子供から大人への成長の過程の中で、自由を認められた自分と、周囲におもねる自分という矛盾した2つの自己を抱えることになる。その結果、恥をかく場合とかかない場合で、一見すると矛盾した行動をとるようになる。
◆補足
ルースベネディクトがアメリカの自由と日本の自由について言及したので、私の考えイメージをグラフ化してみた。
◆感想
戦時中の日本人という話だったが、今の日本人でも通じるところがあるのではないか?
特に、罪の概念ではなく、恥の概念で行動すると指摘していることが、法律ベースではなく、感情ベースで動く現代の国民性うまくあらわせていると思う。
私の印象としては、内容の正確性という意味では疑問の余地がある。しかし、これを土台として、日本人の性質を見つめなおしたり、逆に海外はどうなのだろうと考えるきっかけになればと思う。
考える余地しかない 味覚について
◆はじめに
以前、以下の記事で、世の中考えることがたくさんあるんだよということを書いた。
今回は、その応用編の一つである。
◆きっかけ
何を食べてもおいしいという感想を言う人がいる。
一方どのようにおいしかったのか、なぜそう感じたのかということについて語ることは少ない気がする。
また、お酒を勧めるときに「飲みやすい」という誉め言葉をつかう。
飲みやすいが誉め言葉ならば水でも飲んでおけと思う次第である。
本記事は、なぜこのようなことが発生するのか、ちょっと考えた雑記である。
◆虹は何色から構成されているでしょうか?
いきなり、別の問題をもちだした。
理科系でスペクトルを習った人間ならば、この問題は愚問と感じるであろう。
なぜならば、虹は可視光領域で連続的な波長を含んでいるアナログ値であり、何色と分けられるものではないからである。あえて答えるとするならば、定義次第ということになる。
しかし、我々の日常生活はそうではない。日本人であるならば虹は7色と考えるであろう。(実際高校の物理でも、波長の長い側から「赤橙黄緑青藍紫」と習う)
話によると、アメリカ人は6色、ドイツ人は5色、ロシア人は4色…など様々らしい。
おかしいと思うかもしれないが、そもそも連続量を無理やりデジタル化しているのだから、おかしいもなにもないのだが。
話はそれたが、ここで言いたかったことは同じものを見ても、言葉により思考の制約を受けるということである。
以前の記事で、我々の評価は以下の式であらわせると書いた。
POINT = Σ G_i × ITEM_i
言葉が少ないということはiの数が少ないということと同じである。
◆味覚について(料理篇)
さて、話を脱線させたが、何を食べてもおいしいという答えしか言わない人は何が原因なのだろうか。
・味を感じられていない
・味を構成する要素を知らない。
前者については論外(というか私には扱えない)だが、後者の場合、後天的な努力で改善できるのではないだろうか。例えば酸っぱいという表現を知らないものがレモンを食べたら、どのようにレモンの味を表現できるだろうか?
ということで、味を構成する要素を考える。味覚とは甘味、酸味、塩味、苦味、うま味から構成される。さらに、知覚を拡張させれば、嗅覚とか視覚とか記憶もおいしさを構成する要素になる。
さらに、甘味にも種類があるのではないだろうか?具体的な感覚を挙げることはできないので、レトリックの問題となるが、ほんのり甘い、とても甘い、柔らかい甘さ、甘辛いetc。例えば、おいしい野菜を食べるとき、「新鮮でかんだ瞬間のみずみずしさ、しゃきしゃきとした触感が素晴らしい。また、よく味わってみると、野菜の持っている、ほんのりとした甘さが出てきて、とてもおいしい」などといえば、どう美味しいのか伝わるであろう。
◆味覚について(お酒篇)
お酒の味についてはお粗末である。
これは、お酒を味わうものではなく、酔っぱらうためのツールとして使っている人が多いからであろう。 また、お酒について教育がなされていない(当然だが)ため、お酒を好きで飲んでいる人と、コミュニケーションツールで飲み人でリテラシーに大差がある。
私はウイスキー党なので、ウイスキーの話しかできないが(ワインは複雑すぎる)、ウイスキーは他のお酒と比較して分かりやすいと思う。
ポイントはおおよそ以下のとおりだと思う
・ピートの効いたスモーキーな香り(悪く言えば磯臭い)
・チョコのような香り
・柑橘系の香り
・バニラのような香り
・木材(樽)の香り
・ナッツの香り
このような味(香り)が大雑把にあるのだが、ウイスキーを飲まない人に話をしても理解されないことが往々にある。
お酒というものは、だれもが関わる世界というわけではないので、味覚も表現も未発達なのだと考えられる。
つまり、味覚というものは先天的に身についているものというより、表現を学び、実際に食べてリンクさせるという動作を通じて身につける後天的な技術なのである。
◆数式化する
さて、定性的な話が続いたので、無理やり数式化する。
おいしさとはざっくりいえば、以下の式であらわせるのであろう。
Deliciousness = Σ G_i × taste_i
でこのtasteをどれだけ知っているか(iをどれだけ増やせるか)により味覚への理解が深まるのである。
また、本文中では書かなかったで酸味と甘みのコラボのような相互作用もあるので、実際は以下の式であらわされるのであろう。
Deliciousness = ΣΣ G_i,j × taste_i,j
i=jのときは単一の味覚を、i≠jのときは相互作用を表す。
味覚の要素が5種類あれば5×5の25通りの表現を知る必要がある。
◆まとめ
本文章では、味覚について考えてみた。
要するに、味オンチといわれる人間は味がわかっていないということもあるが、味を表現する言葉を知らないという可能性もあるのではないかという提言である。
もし、表現を知らないだけならば、食べ物と表現の関係を学んでみればよいだろう。
それだけで、おいしいという表現に対する理解が深まるかもしれない。
数学ガール ゲーデルの不完全性定理 その1 結城浩
◆概要
数学ガールとは結城浩さんの著作で、学生が数学について考えていくストーリーとなっている。ストーリーが面白いだけでなく、ガロワ理論やフェルマーの最終定理など様々な数学にまつわる話を書いている。数学を読む本であるというのが私の印象である。
本書はゲーデルの不完全性定理について書いている。ゲーデルの不完全性定理は以下の2つから構成される。
第1不完全性定理とは、ある条件を満たす自然数論は、 どんなに工夫してもその中に証明も反証もできない論理式が存在するというもの。
第2不完全性定理とは、数学的帰納法が扱える自然数論では、それが無矛盾なら、 自分自身が無矛盾であることを証明することはできないというもの
昔、岩波文庫のゲーデルの不完全性定理を読んでまったく理解できなかったので、今度こそと思い、とっかかりとして本書を読む。
◆本記事の内容
◆論理ゲーム
◆例
冷蔵庫のプリンが誰かに食べられてしまった。
幼女Aは「犯人はBです」と発言した。
幼女B,Cもある発言をした。
その後、
『犯人はABCのうち誰か1人』
『犯人だけが発言で本当のことを言った』
ということが分かった。
犯人は誰?
◆ポイント
条件が多すぎるとダメ。少なすぎるとダメ
多すぎると問題が簡単になってしまう。
少なすぎると、答えが分からない。または数パターン発生する。
微妙な塩梅を出すのが難しい。
◆論理の限界
「私はうそつきだ」
という人はうそつきか、正直者か?
この問いに対しては答えることができない。
正直者だとしたら私は正直者だと答える。
うそつきだとしたら私は正直者だ(=うそつきではない)とこたえる。
つまり、私はうそつきだという人はいないのである。
個人的な印象だが、このような自己言及的な論理、再帰的な論理はループにはまりやすく、複雑になりがちだと思う。
◆ペアノの公理とは
自然数は次の5条件を満たす。
1.自然数 0 が存在する。
2.任意の自然数 a にはその後者 (successor)、suc(a) が存在する(suc(a) は a + 1 の "意味")。
3.0 はいかなる自然数の後者でもない(0 より前の自然数は存在しない)。
4.異なる自然数は異なる後者を持つ:a ≠ b のとき suc(a) ≠ suc(b) となる。
5.0 がある性質を満たし、a がある性質を満たせばその後者 suc(a) もその性質を満たすとき、すべての自然数はその性質を満たす。
◆ポイント
公理を導出するには、既存の知識を使用できない。
なぜならば、我々の知識は公理の上に成立しているからである。
自然数とは何かということを我々は直感的に知っているし、おそらく99%程度は正しい理解をしていると思う。
しかし、自然数とは何かを一般化できることはないだろう。
◆集合と写像
◆集合
集合論は一種の言語であり、明確な呼び方をしてあげる必要がある。
例えば、1は整数という集合に属している。
偶数という集合と奇数という集合の積集合は空集合である。etc.
ポイントは包含関係、積集合、和集合
◆写像
ある集合に何らかの操作を加えて別の集合に移すことを考える。
例えばXという集合とYという集合があるとする。Xという集合の構成要素xに対し、F(x)という操作を行い、Yという集合の中に移されるとすると、以下のような関係になることが考えられる。
(1)全単射
xとyが1対1で決まる。
例えば、X、Yを整数全体の集合とする。
構成要素についてy=xとすれば全単射といえる。
当然、XとYの構成要素数は同じとなる。
(2)全射
xが決まるとyが決まるが、逆にyがわかってもxが決まらない。
平たく言えば、ダブりを許容するということ。
例えば、Xを整数全体の集合とし、Yを0と自然数の集合とする。
構成要素についてy=|x|とすれば全射となる。
(3)単射
xが決まればyが決まるが、Yのすべてを埋め尽くせるわけではない。
平たく言えば、漏れを許容するということ。
例えば、X、Yを自然数全体の集合とする。
構成要素についてy=x^2とすれば単射となる。
◆ガリレオのためらい
◆矛盾
すべての自然数という集合Xとすべての自然数の2乗という集合Y。
この集合は全単射に該当する。
すると不思議なことが起こる。
1→1, 2→4, 3→9, 4→16, ……
すべての自然数の集合Xとすべての自然数の集合Yの個数は本当に一致するのか?
少なくとも両方の集合に10までの値という制約を与えてやると、
X = {1,2,3,4,5,6,7,8,9}
Y = {1,4,9}
なので明らかに全単射ではない。
しかし、考えを無限に拡張すると成立するのである。
(Xの無限とYの無限では表現は同じ無限でも、意味は違うということ)
◆まとめ
つらつらと読んだことをまとめていった。
ここまでは高校数学や大学1年の数学レベルなので、聞いたことはある話だった。
これらが、どうやってゲーテルの不完全性定理につながるか、見ていきたい。
(つづく)
考える余地しかない
◆はじめに
大層なタイトルを付けたが、理系の学生なら数式としては見たことのある、当たり前の話である。ただし、今回は理科系で得た考えを実生活に活用してみようという話である。
◆この話をするきっかけ
我々の周囲には、知っているようでその意味が共有されていない言葉が多くある。
その結果、コミュニケーションが取れず、話がかみ合わないことがある。
周囲の人で「なんでそんなことを聞くの」という人がいれば、その人はものすごく考えたうえで聞いている可能性がある。
考えている人は大変なんだということを紹介したい。
◆事例
・私の彼女・彼氏はいい人なんだ。
いい人というのは何でしょうか。要素を取り出すと以下の項目がありそう
1.優しい
2.面白い
3.かっこいい、かわいい
4.経済力がある
5.学歴がある
6.知性がある
7.勇気がある
8.清らかである
9.決断力がある
10.その他
などなど。もちろんこれらの項目をすべて満たしているというのが理想であるが、そうではないことが実際であろう。じゃあ我々は取捨選択をしているわけであるが、どのように取捨選択をしているのだろうか。
・この製品はいい製品だ。
人を評価するのは倫理的に問題点があると思うので製品、ここではエアコンを考える。いいエアコンとは何であろうか。
1.機能(冷房・暖房)
2.コスト(安い)
3.納期(当日取り付け)
4.サービス(故障対応)
5.使いやすさ(温度を自動調整)
6.拡張性(携帯から操作できるようにプログラム可能)
などなど。もちろんこれらの項目をすべて満たしているというのが理想であるが、そうではないことが実際であろう。じゃあ我々は取捨選択をしているわけであるが、どのように取捨選択をしているのだろうか。
◆我々の判断
我々の判断は各項目に重みづけをしている。
例えば、私がエアコンを選ぶ時の基準を示す。
・機能→同じ温度でも、会社によって涼しさが違ったりする。大切。
・コスト→超大切。
・納期→故障に気づいたときは使用期間。なのでできるだけ早い方がいい。
・サービス→興味なし。
・使いやすさ→興味なし。
・拡張性→あったらうれしい。
・その他→メーカーの押しているポイントで気になるものがあれば加点
◆数学化する
先項は文章で書いているが数字に直してみよう。
100点満点と考えた時、各機能をどれくらいの重要度と考えているだろうか。
・機能→30点
・コスト→50点
・納期→10点
・サービス→0点
・使いやすさ→0点
・拡張性→5点
・その他→5点
そのうえで各メーカの製品比較をする。各項目に対し、何点か書く。
H社 T社 M社
機能 100点 50点 70点
コスト 50点 90点 70点
納期 80点 80点 80点
サービス 70点 70点 80点
使いやすさ 80点 80点 80点
拡張性 40点 50点 60点
その他 0点 0点 30点
各会社の合計点は以下のとおりである
機能+コスト+納期+サービス+使いやすさ+拡張性+その他
H社 (30*1)+(50*0.5)+(10*0.8)+(0*0.7)+(0*0.8)+(5*0.4)+(5*0) = 65点
T社 (30*0.5)+(50*0.9)+(10*0.8)+(0*0.7)+(0*0.8)+(5*0.5)+(5*0) = 70.5点
M社 (30*0.7)+(50*0.7)+(10*0.8)+(0*0.8)+(0*0.8)+(5*0.6)+(5*0.3) = 68.5点
以上の判断からT社がよいと判断できる。
なお、本件は以下の数式であらわすことができる。
POINT = Σ G_i × ITEM_i
POINTは合計点、Gは重みづけ係数、ITEMは各項目である。
ただの期待値を求める数式である。
◆数学化の問題点
問題点は以下のとおり
・いいと思う項目すべてを考えているわけではない
・我々は何が大切かということをあまり明確に考えていない
・個人の中で思っていることを他人と共有できていない。
これらのことから、同じ言葉を使っていてもコミュニケーションができていないという現象が発生する。この現象を解決するには、ウザったいくらい質問するしかないのである。
◆最後に
考える余地しかないというタイトルを付けたが、ここでは心構えを書いた。
こんなことを知らなくても行動できるし、日常生活を送れるのは否定しない。
ただ、世の中、あらゆる物事が思考の対象になるし、思考するためにはデータを集めるしかなく、データは必ずしも与えられたものではないということを示したかった。
みなさまもあらゆることにたいして、疑問を抱いてみましょう。
電気の話
◆概要
電気の基本の話です。
停電とかで電気の話があったので少しボヤキを。
◆なぜこの記事を書くか
簡単に言えば、皆さんに勉強をしてもらいたいからこの記事を書く。
もしくは、自分は電気を知らないのだと自覚してもらいたいからである。
電気工学についてオームの法則くらいは知っているだろうか?
抵抗にかかる電圧は抵抗に流れる電流と抵抗値の積であらわせるという話で
V = I × R
という式であらわされる。正直、この数式を実際に使ったという人は少ないと思う。
これは、それだけ電気工学が発展・成熟しており、ユーザに負荷をかけていない状態であるという証拠である。
一方、ユーザが電気を知らないがゆえに、停電の発生時に理不尽なクレームが多すぎると感じた。クレームをするならば、自分が間違っているのではないかという観点を持ってもらいたい。
◆電池の電気とコンセントの電気
我々が電気として認識できるのは、電池の電気とコンセントの電気くらいだろうか。これらは何が違うのだろうか。
電池の電気は直流というもので、時間によらず一定の電圧がかかっている。
これは小学校、中学校、高校でならう電気であり、直列回路、並列回路、オームの法則で計算できる。
コンセントの電気は交流というもので時間によって電圧が正弦波で変動する。
この電気は計算が難しく、大学になって初めて真面目に勉強する。
(高校ですらまともに勉強しない)
直列回路、並列回路、オームの法則のほか、コンデンサ、リアクトルの話が出てきて、複素平面で物事を考えるようになる。
◆交流の電気の話
電圧が正弦波で変動するならば、電圧がかかっていない時間があるの?
すると機械が止まるんじゃない?と思うかもしれない。
この疑問はごもっともであり実際、機械は止まってしまう。
ならばなぜコンセントから電気をとってくるゲーム機やパソコンは停止しないのだろうか。
これは交流の電気を直流の電気に変換しているからである。
一般に、コンセントの交流100Vは半導体回路を用いて直流24Vに変換している。
この直流を用いて機器を運転しているので、機械を停止しないのである。
◆まとめ
この記事は、かなり雑に書いている。
おそらく、読んだ人は何も理解できないだろう。
(逆にこれで理解できたという人はもともと知っているか、知ったと勘違いしている人だ)
大切なのは、電気工学はバックグラウンドでさまざまな検討がされており、簡単な問題ではないという話である。決して素人は専門家に口を出すなということではなく、謙虚な気持ちで質問し、回答に対して理解してもらいたい。
(専門家の回答に対して信用できないとかいう発言は言語道断である。信用できないのならば、どこにおかしいと感じているのか話してくれないとコミュニケーションにならない)
◆補足 個人的におかしいと思っていること
個人的におかしいと思うのは太陽光発電の活用である。
太陽光発電を増やせば、火力や原子力を減らせてハッピーという話にはいろいろ突っ込みどころがあるのだが、電機系のエンジニアとして一番困るのが、電気の安定性である。太陽光発電は電圧変動が激しく、電力系統が不安定になる(電圧が動いたり、周波数が動いたりする)。また、あらゆるところを接続すると、短絡容量が増大し、大規模停電につながる可能性が高くなる。
上記の話は電機系のエンジニアでは常識だが、ニュースなどで議論されることはない。個人的な印象だが、軽い気持ちで太陽光発電を入れればいいという話が多い気がしている。
もちろん、エンジニアには説明責任があるという点は否定しない。しかし、系統の話をするには、交流回路を理解できなければいけないし、交流回路を理解するには複素平面を理解していなければいけない。そのような努力を放棄した人に対し、説明責任があるといわれても、心苦しいところがあるというのを理解してもらいたい。