史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶 (その2)
◆はじめに
史上最強の哲学入門 東洋の哲人たちについての続き記事です。
今回は中国の思想について書きます。
東洋哲学全般と、インド哲学については前回の記事をどうぞ。
◆中国の思想
以下の観点から記述していく
・中国の思想家が生まれるまでの経緯
■中国の思想家が生まれるまでの経緯
中国の「史書」の中の逸話である。中国は黄河や揚子江などの豊かな河のおかげで文明を発展させていた。豊かな河の利益を享受する一方、定期的な氾濫に悩まされていた。
そこで、氾濫をどうにかしようとしたのが堯である。堯は治水するため人を集め、行動を起こしたが、彼の人生では終わらなかった。彼は自らの仕事を息子ではなく、優秀な舜という男に引き継いだ。
舜も堯に引き続き治水作業を行った。彼のひたむきさもあり、不正を行うものはいなくなっていた。それでも彼の生涯では作業を完遂させることはできなかった。治水の仕事を禹に譲ることにする。
禹は熱心に治水作業に取り組む。その熱心さは1年中河に入って作業をするほど。その結果、彼の足は腐ってしまうが、治水作業を完遂することができた。
彼ら堯・舜・禹により建国された王朝は夏となり、発展していくことになる。
なお、殷王朝、周王朝と続くが、いずれも世襲制による政治腐敗により世の中は混乱してしまう。そして戦国時代へ。
戦国時代は他国よりも強くなるために知に優れた人を欲した。その中で生まれたのが孔子、墨子、孟子、荀子などである。
孔子は不遇の人物であり、彼の功績は弟子によって書かれたものである。仁や礼をといた人。彼のすごさは、話の中身というよりも、彼の心意気である。つまり戦国時代に人を殺しましょうとかではなく、思いやりを持ちましょうという思想を広めた点が優れているのである。
墨子は兼愛の人。孔子の思想は身内のように周りを愛しましょうという教えであるが、逆に言えば、身内と認識しなければひどいことをしてもよいということ。墨子は幅広く愛しましょうといった
孟子は孔子の後を継ぐ人であり、性善説を唱えた人である。性善説といっても、人間は生まれながらにして優れているからハッピーという話ではない。人間はいいものなのに主権者がダメだから戦乱の世の中になっているという権力者を批判する激しい思想である。
荀子は法家の基礎を作った人である。性悪説をとなえ、それを守るために法律などの規律が必要とする。(西洋の社会契約でホッブズが主張することに近いかもしれない)
ここまでの思想家は明らかに現世利益のための思想であった。老子は哲学的思想の持主であった。老子は自分の思想は文章であらわせないものと考えており、思想を残そうとしなかった。それでも、文章が残っているのは弟子の懇願によるものである。
老子の思想はインド哲学に近く、非常に難しい。理由の一つとして、端的にしか書いていないことがある。例えば、以下の文章が残っている。
「学をなせば日々に益し、道を為せば日々に損ず。これを損じて又た損じ、もって無為に至る。無為にして為さざるは無し」
「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母」
控えめに言って難しい。インド哲学の「アートマン」の話に近い。結局、何物でもないということ。
このように非常に端的で難しい老子の教えを分かりやすくしたのが荘子である。荘子の思想で分かりやすかったのがこれである。
「道には本来境界などなく、言葉にも本来一定の意味などない。ところが言葉で道を表そうとすると、そこに境界、秩序が生まれる」
つまり、本来はすべてが一つであったのに、人間が勝手に名前を付けて切ってしまったと言っている。ほかにも、名前を付けてしまったがゆえに、名前を付けたことに対して名前を付けてと言葉が氾濫するようになった。これを超えることが道の要である。などといっている。
◆終わりに
今回は中国哲学の内容を説明した。
中国の思想家は、戦国時代という背景もあり現実的なものが多かったが、老子・荘子の思想はインド哲学に似通っている。中国とインドで同じような思想に至るのは非常に興味深いものである。やはり、悟りのようなものは存在するんでしょうかね。
文学を読むきっかけ
◆はじめに
本記事は私が哲学書や文学を読み始めたきっかけについて整理します。
◆きっかけ
主に以下の3つの理由から文学に傾倒するようになったと思います。
①知人からストイックだねといわれる
→ストイックとは何か調べ始める
→ストア派の教えに到達する
→価値が高いと思われる哲学や文学に傾倒する
おそらく知人は勤勉に教科書にかじりついている姿を見て、娯楽を避けていると思ってこのような発言をしたのだと思う。その時の私はストイックという言葉の語源が分からず、調べたところ、ヘレニズム哲学の一つということがわかりました。
とっかかりとしてセネカの「人生の短さについて」を手に取り読んでみたところ、非常に面白く、ストア派の文章を読むようになりました。ストア派の教えは要約すると、「自然と調和し、自らのなすべきことをなせ」という感じでしょうか。
その結果、価値が高いと思われる文章(エリート主義で嫌な感じですね)を読みたいと思うようになり、哲学や文学に傾倒するようになりました。
②人工知能の学習中、チューリングテストと中国語の部屋という話を知る
→人間とは何だろうか知りたくなる
→西洋哲学に傾倒する
人工知能を勉強していると、人間は特別なものではないという認識に立たされるときがあるのではないかと思います。チューリングテストは人間とコンピュータがチャットを行い、コンピュータの回答がコンピュータとばれなかったらOKというテストです。
中国語の部屋はチューリングテストの続きともいえる思考実験です。中国語話者と非中国語話者が中国語でチャットをするとき、非中国語話者は辞書を使いながらチャットをします。この非中国語話者は中国語を理解しているのかという命題です。(非中国語話者をコンピュータに言い換えればコンピュータが人間のことを理解しているのかという問題に置き換えられます。)
このような命題に対し、外的刺激に対し、人間らしい反応を返せば人間なのでしょうか。そうすれば、人工知能は人間であるといえるかもしれません。また、理解し行動するのが人間なのでしょうか。その場合、理解するとは何なのでしょうか。どのように判別するのでしょうか。
人工知能と人間の差について、フィリップ・K・ディックさんの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」や森博嗣さんの「Wシリーズ」の中で書かれています。また、マークトウェインの「What is man」という本もあります。いずれもおすすめです。
③現代の小説がハンコを押したように同じ話が量産される
→飽きる
→夏目漱石を手に取る
→意外に現代っぽい世界観価値観に魅了される。
自分が学生のころ、あまり価値基準がなかったので、一般に面白いといわれている本を読んでいました。ある時、あらゆる物語が同じストーリーであることに気がつきました。そのストーリーとは
・主人公がヒロインとであう
・日常生活を通じて仲良くなる
・仲良くなったところで悲劇が到来する。
・死別
決まりきったお涙ちょうだいの物語に飽きたんですね。もちろん、本の面白さはストーリーのみならず、登場人物の魅力・個性であったり、ユーモアのセンスだったり、韻を踏むなどの要素もあるわけですが、あまりにも個性を失った大量消費小説にうんざりしました。(ジャンクブックとかファストブックとでもいえばいいですかね。)
そんな時に夏目漱石の「こころ」を手に取りました。古典はそれ自体が面白いという意義もありますが、昔の人の文化をうかがいしれる点が素晴らしいです。また、読者も多くさまざまな解釈がされていて、そのような視点もあるのかと気づかされることが多くあります。読書を通じて、自らの認識に影響を与えることが多いです。
◆まとめ
私が哲学とか文学を読むようになったきっかけについて記述しました。なんか偉そうなことを書いていますが、決して哲学、文学以外を否定しているわけではありません。そもそも本を読む行為自体を「読書」とひとくくりにしてしまうのに無理があるので、私の価値基準は以上のようなものだという話です。
史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶 (その1)
◆はじめに
本書は東洋哲学の概要を整理した本である。従って、すでに本の時点でよくまとまっているというのが正直な感想。ただ、自分の学習もかねてアウトプットする。
また、分量が多いので複数回に分けて整理する
◆概要
作者は飲茶さん。西洋哲学をまとめた史上最強の哲学入門などを書いている。
本書は、東洋哲学について分かりやすい形で整理している。
非常に分かりやすいが、後述の理由で正しいことを書いたとは言えない。
◆要約
本記事では以下の点についてまとめる
・東洋哲学と西洋哲学の違い
西洋哲学は論理を積み重ねたもの。
一見難解だが、あきらめなければ、前に進める。
また、体験していなくても、言葉のうえで分かれば分かったといえる。
東洋哲学は真理に到達した人の記述を解釈したもの。
真理に到達した人でないと、理解したとは言えない。
例えば、「私は認識するものである。認識するものを認識することはできない。したがって、認識するものは侵されない」といったところで、論理としてわかっても、実感は伴わないだろう。この実感が伴うという点で東洋哲学は西洋と大きく異なる。
また、真理に到達した人が真理を言葉にした時点で、真理が真理でなくなってしまう。ゆえに、我々は真理に到達しなくては、東洋哲学を知ることはできないのである。
・東洋哲学の始まり
東洋哲学の始まりはバラモン教にある。バラモン教では祭司が重要な役職に合った。このような身分制度があると、階級が上のものは、暇つぶしをし始める。これが東洋哲学の始まりである。(ギリシアで奴隷がでてきて暇人が哲学し始めたのと同じ構図である。)
インド哲学では、重要な人間が3人いる
・ヤージャニャヴァルキヤ
バラモン教のウパニシャッドの思想家。ウパニシャッド哲学では宇宙の根源であるブラフマンと人間の本質であるアートマンが同じものであるという梵我一如を真理とした。
・釈迦
アートマンとは何物でもないものであるというのが真理であるが、真理に到達できたか確認するために苦行が当時流行していた。釈迦も苦行を経験し、骨と皮だけになったが、真理に到達できなかった。
その後、49日間の瞑想を通じて悟りに通じたといわれている。その結果が無我の境地である。無我の境地に至った彼はアートマンは存在しないとした。また、悟りに至った彼の教えは四諦と八正道である。
・龍樹
釈迦の死後、仏教は戒律を守る小乗仏教と戒律を緩くした大乗仏教に分裂。
大乗仏教を広めた天才が龍樹である。
龍樹は釈迦の教えを600巻以上の般若経にまとめた。なお、600巻は多すぎるので、262文字にまとめた般若心経が今でも読まれている。
般若心経はあらゆるものを否定した。あらゆるものを捨てて、えいやと悟りにいたることができると説いているのである。
◆まとめ
今回は、東洋哲学の概要とインド哲学についてまとめた。
内容が複雑であること、私の日本語力の問題で、かなり怪しい文章になっている。
この本自体はとても面白いので、読んでみるといいと思う。
最強!のニーチェ入門 飲茶
◆はじめに
そろそろ、ツァラトゥストラや道徳の系譜を読みたいなと思っていたので、その入門として買ってみた。近代以降の哲学に対して全然知識がなく、イマヌエルカント→ウィトゲンシュタイン→ハイデガーくらいしか知らない。
ニーチェ本のガイドブックになるとともに、近代哲学の入り口になってくれればと思い読んでみた。
◆概要
OLと先生の対話形式で話をする本。現代人がニーチェの思想を基にお悩み解決をするという形の本。非常に分かりやすい例を用いて、ニーチェを解説している。
作者は飲茶さん。史上最強の哲学入門や正義の教室など、分かりやすい例を用いながら哲学の入門書を執筆している。
また、テーマのニーチェは実存主義の人。神は死んだなど、さまざまな名言を残しており、人気の哲学者のひとりである。
◆要約
以下の3点についてまとめる
・末人の誕生
・道徳は弱者のたわごとである
・目の前のことに精一杯生きる
■末人の誕生
末人とは、「忙しく働いて、無為に時間をつぶす人間」のこと。周囲を見渡すとそのような人はたくさんいるだろう。19Cを生きたニーチェはこのような事態を予見していたのである。
ニーチェの考えは以下の流れである。
1:昔は宗教により人生に意味付けがされていた。(Last Judgement)
2:宗教は力を失い、人々は人生に意味がないことを悟る
3:人生に意味がないのだから人生の充実感や情熱を失う
4:日々を無為に過ごす人の誕生
このようにして、末人が誕生すると予見していたのである。
ところで、項目2で人生に意味がないということを記述している。なぜ、意味がないのだろうか?
宗教を失った現代人の考える人生の意味は、結婚することとか金持ちになることとかであろう。しかし、少し考えてみてほしい。結婚や金持ちになったとき、またはなれなかったとき、虚無感や挫折を感じるのではないのだろうか。例えば、結婚したときは幸せだったけど慣れてくるとウザったいとかいう話があるだろう。
しかしながら考えてみると、そもそもこのような人生の意味は社会的慣習によるものが大きい。一夫多妻制や共産主義や少数の部族など我々の価値観と違う価値観を持った人々がいるが、彼らの人生は間違っているのだろうか?
結局我々の考えている意味というのは、外部からの押しつけであり、本質的な意味はないということができる。
■道徳は弱者のたわごとである
我々の価値観は歪んでいることを指している。心理学的に言えば認知的不協和の一種であろうか。イソップ物語の例を示す。
狐は木になっているブドウを採ろうとしてジャンプする。何回か挑戦するものの、らそのブドウに手が届くことはなかった。そして狐はこういう。「あのブドウはすっぱいぶどうだよ。」
要するに、手に入らなかったから、ジャンプ力を伸ばすという努力を放棄して、負け惜しみをするということである。これが道徳とどのようにつながるのだろうか。
我々の価値観として「弱いことはいいことだ」という側面はある。いきなり休日出勤を求めら従ったりしていないだろうか。いじめをされているのに従っていないだろうか。前者に対して自分が会社の役に立っているとか、後者に対してやり返したらもっといじめられるとか考えていないだろうか?このような価値観は奴隷道徳ということができる。
ニーチェは道徳のすべてを批判したわけではない。ただ、道徳のうち、人間本来の生き方を妨げているものが存在していることを指摘しているのである。
■目の前のことに精一杯生きる
人生に意味がないことを受け入れて、目の前のことに精一杯生きることが超人であり、幸福に生きる道である。この結論に至るための手法として、ニーチェは永劫回帰という考え方をした。
永劫回帰とは世界は繰り返しであるという思考上の仮定である。例えば、荷物運びを、終わりもなく実施すると考える。ここで、荷物を運ぶことに意味を求めると絶望してしまうだろう。
そのような世界で幸福に生きるためには、今目の前の荷物を運ぶことに集中することだとしている。集中するとは社会的な意味づけではなく、リアルな感触を大切にすることを指す。例えば、荷物の価格とか、何のために運ぶとかではなく、荷物の手触りとか重さとかを感じることで幸福に生きることができる。
◆感想
ニーチェの思想のフレーム見たいなものを理解した気がする。特に、愚痴とか不満とか吐きながら行動しないのは末人であると考える。
本書はあくまでも入門書なので、原書を読むまたは体験を通じて理解を深めていきたい。
◆キーワード
ニーチェは独特の用語が多いので、メモしておきます。
末人、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、奴隷道徳、神は死んだ
以 上
菊と刀 ルースベネディクト
◆初めに
菊と刀は外国人からみた日本人論。日本人からみた日本人論としては新渡戸稲造の武士道があるが、それとは違う作品である。
◆概要
著者はルースベネディクト。文化人類学者。
本書は、第二次世界大戦において、日本人を降伏させために、日本人の文化や理念を分析するという目的で書かれている。
戦時中の日本人は、絶対撤退せず、忠誠心に満ちた人種と思われた。一方、捕虜になると、自国のことをべらべらとしゃべってしまう、忠誠心のない人種に思えた。このような矛盾を解明することがポイントとなる。
◆内容
ポイントは以下の3点と考える
・応分の場を占める。
この話は日本人は階級構造が好きということを言っている。
階級の要因は我々のいわゆる士農工商の身分ということではなく、年齢・性別・仕事などなど。例えば、年寄りや子供は無条件で尊敬の対象となる。男性は外で働き、女性は家庭を守るのが常識。仕事では、発注側が偉く、受注側は発注側はそのわがままを聞くことになる。
私の考察となるが、日本の応分の場を占めるという文化は日本の官僚主義に代表されつと考える。それぞれが、自分の役割のみに従事し、その意味や影響を深く考えないという点で共通なのではないか。また、この考えが原因で、仲間の役割から外れた人に対するいじめが起きたりするのだと思う。
ちなみに、日本の植民地政策の問題点として、このような倫理観のおしつけというのを本書では挙げている。
・恥の概念
応分の場を占めるということだけでなく、恥も重要な行動原理となる。
ルースベネディクトは夏目漱石の坊ちゃんからヒントを得ている。坊ちゃんの内容をまとめると、「友人の山嵐から1銭5厘の借りがあった。その後、山嵐が自分の陰口をたたいているという噂を聞き、1銭5厘の借りを返さなければならないと感じた」という話である。このように日本においては、友人でもない人から借りがあるということは恥であり、恥を抱えてはいけないという文化がある。
ほかにもご恩には奉公する。辱めをうけたら、返さなければならない。究極的には
恥をかくくらいなら切腹する。このように、恥という概念が幅を利かせている。
・子供の教育
ならば、いつから恥の概念や応分の場を占めるという話になるのだろうか?
そこでルースベネディクトは子供の教育に注目する。
日本の子供(小学生低学年まで)は基本的に自由である。離乳は遅い。兄や姉は弟や妹のわがままを許すように言われる。実際、石けりやボール遊びが自由に許される。
そこでは子供は自分の自慢をする。例えば、「僕は殿様で、君は家来だ」「うちの父さんは君の父さんより賢いんだ」など。
年を取るにつれ、自由は許されなくなる。しかも恥をかかせるという手段をとって。「お乳を必要とするのは赤ん坊ですよ」「男の子なんだから泣かないこと」「あの子の方が立派ね」など
大人になると、言葉遣いは丁寧になる。自分たちには拙宅、愚妻、愚息などをあてがい、一方他社にはご尊宅、ご令息、ご令嬢などをあてがう。
このように子供から大人への成長の過程の中で、自由を認められた自分と、周囲におもねる自分という矛盾した2つの自己を抱えることになる。その結果、恥をかく場合とかかない場合で、一見すると矛盾した行動をとるようになる。
◆補足
ルースベネディクトがアメリカの自由と日本の自由について言及したので、私の考えイメージをグラフ化してみた。
◆感想
戦時中の日本人という話だったが、今の日本人でも通じるところがあるのではないか?
特に、罪の概念ではなく、恥の概念で行動すると指摘していることが、法律ベースではなく、感情ベースで動く現代の国民性うまくあらわせていると思う。
私の印象としては、内容の正確性という意味では疑問の余地がある。しかし、これを土台として、日本人の性質を見つめなおしたり、逆に海外はどうなのだろうと考えるきっかけになればと思う。