文学を読むきっかけ
◆はじめに
本記事は私が哲学書や文学を読み始めたきっかけについて整理します。
◆きっかけ
主に以下の3つの理由から文学に傾倒するようになったと思います。
①知人からストイックだねといわれる
→ストイックとは何か調べ始める
→ストア派の教えに到達する
→価値が高いと思われる哲学や文学に傾倒する
おそらく知人は勤勉に教科書にかじりついている姿を見て、娯楽を避けていると思ってこのような発言をしたのだと思う。その時の私はストイックという言葉の語源が分からず、調べたところ、ヘレニズム哲学の一つということがわかりました。
とっかかりとしてセネカの「人生の短さについて」を手に取り読んでみたところ、非常に面白く、ストア派の文章を読むようになりました。ストア派の教えは要約すると、「自然と調和し、自らのなすべきことをなせ」という感じでしょうか。
その結果、価値が高いと思われる文章(エリート主義で嫌な感じですね)を読みたいと思うようになり、哲学や文学に傾倒するようになりました。
②人工知能の学習中、チューリングテストと中国語の部屋という話を知る
→人間とは何だろうか知りたくなる
→西洋哲学に傾倒する
人工知能を勉強していると、人間は特別なものではないという認識に立たされるときがあるのではないかと思います。チューリングテストは人間とコンピュータがチャットを行い、コンピュータの回答がコンピュータとばれなかったらOKというテストです。
中国語の部屋はチューリングテストの続きともいえる思考実験です。中国語話者と非中国語話者が中国語でチャットをするとき、非中国語話者は辞書を使いながらチャットをします。この非中国語話者は中国語を理解しているのかという命題です。(非中国語話者をコンピュータに言い換えればコンピュータが人間のことを理解しているのかという問題に置き換えられます。)
このような命題に対し、外的刺激に対し、人間らしい反応を返せば人間なのでしょうか。そうすれば、人工知能は人間であるといえるかもしれません。また、理解し行動するのが人間なのでしょうか。その場合、理解するとは何なのでしょうか。どのように判別するのでしょうか。
人工知能と人間の差について、フィリップ・K・ディックさんの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」や森博嗣さんの「Wシリーズ」の中で書かれています。また、マークトウェインの「What is man」という本もあります。いずれもおすすめです。
③現代の小説がハンコを押したように同じ話が量産される
→飽きる
→夏目漱石を手に取る
→意外に現代っぽい世界観価値観に魅了される。
自分が学生のころ、あまり価値基準がなかったので、一般に面白いといわれている本を読んでいました。ある時、あらゆる物語が同じストーリーであることに気がつきました。そのストーリーとは
・主人公がヒロインとであう
・日常生活を通じて仲良くなる
・仲良くなったところで悲劇が到来する。
・死別
決まりきったお涙ちょうだいの物語に飽きたんですね。もちろん、本の面白さはストーリーのみならず、登場人物の魅力・個性であったり、ユーモアのセンスだったり、韻を踏むなどの要素もあるわけですが、あまりにも個性を失った大量消費小説にうんざりしました。(ジャンクブックとかファストブックとでもいえばいいですかね。)
そんな時に夏目漱石の「こころ」を手に取りました。古典はそれ自体が面白いという意義もありますが、昔の人の文化をうかがいしれる点が素晴らしいです。また、読者も多くさまざまな解釈がされていて、そのような視点もあるのかと気づかされることが多くあります。読書を通じて、自らの認識に影響を与えることが多いです。
◆まとめ
私が哲学とか文学を読むようになったきっかけについて記述しました。なんか偉そうなことを書いていますが、決して哲学、文学以外を否定しているわけではありません。そもそも本を読む行為自体を「読書」とひとくくりにしてしまうのに無理があるので、私の価値基準は以上のようなものだという話です。